山本覚馬邸の話 [歴史]

同志社大学が、山本覚馬の品として展示したものが、全然違うものだったという件。

経緯はこうだったらしいですね。
同志社で所蔵資料を整理し、伝来不明で誰のものかわからなかった刀を業者に研磨依頼したのです。
するとその業者が「(刀の銘から)相応の人物のもちものではなかったか」と言ったのです。
それを聞いたンターの調査員と当時の事務長が勝手に考えた。
同志社所蔵の刀だから、覚馬のものではないか、と思ったのです。
そして「伝山本覚馬所用長巻」と名付けて、公開しようとしたということです。

「こうだったらいいのにな」という妄想の仕業です。

新聞で偽物騒ぎを知った時、私はおかしいなと思ったのは、山本覚馬邸というのがあったのではないかという記憶です。
あそこにあったものなら山本覚馬のものだと言っておかしくないのではないか、と。
しかし調べてみると、そんなものはなかった。
生きているときに住んでいた家はもちろん明治初年まではあったでしょう。
そのあと言われたのは山本覚馬邸、という呼び名と、邸跡という看板だけです。

河原町御池だということですから、考えたらでかい交差点の場所であり、記念物があればもっと目立った感じになっているはずです。本能寺みたいに。
 
京都は、坂本龍馬が切り殺されたまさにその場所にコンビニがあって、立札がたっていたり、応仁の乱の刀傷そのままあるそのあとに夫の名誉を晴らすために自害したおかめさんの像まである寺だとか、非常に不思議なことがある場所なので錯覚しました。 

で、思うのは、私が山本覚馬邸にあったら覚馬のものだろうと思ったのと同じ地平線に、同志社にあったら覚馬のものだろう、という妄想があるということです。


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